山間の小さな町に、その家はぽつんと建っていた。古びた外観に似合わず、内装は奇妙なほど綺麗で、どこか「新しい」匂いがした。
「ここが新しい我が家よ」
母・久美子が明るい声で言う。父・啓一は満足げにうなずき、長男・悠斗は興味深そうに家の中を見回した。だが、末娘の美咲だけは、一歩家に足を踏み入れた瞬間から、なにか得体の知れない気配を感じていた。
「……なんか、変だよ」
「気のせいさ、広くて静かで最高だろ?」
啓一はそう言って、美咲の頭をくしゃくしゃと撫でた。
引っ越しの夜、家族がダイニングで夕食を囲んでいると、どこからか微かに囁くような声が聞こえた。
「………………」
「今、誰か何か言った?」
美咲が言うと、久美子が笑って答えた。
「テレビの音じゃないの?」
テレビはついていなかった。
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数日が経つと、啓一の様子が変わり始めた。夜中にぶつぶつと独り言を言いながら廊下を歩き回り、誰もいない部屋に向かって語りかけていた。
「うん、わかった……すぐに直すよ……でも、あの子が……」
「パパ、誰と話してるの?」
美咲が尋ねると、啓一はにっこりと笑って答えた。
「大丈夫、大丈夫」
ある日、啓一は庭に穴を掘り始めた。何もないところに、黙々と、深く深く。
「何してるの?」
久美子が聞くと、啓一が答えた。
「迎える準備だ」
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次に異変が現れたのは久美子だった。
台所で誰かと話していた。誰もいないはずの隣の椅子に向かって、優しく、時に恍惚とした笑みを浮かべながら。
「あなた、本当に料理が好きなのね……ううん、私のほうが下手よ……でも、これなら……」
そして、久美子はある日の夕食時、皿を5つ並べた。
「え?誰か来るの?」
悠斗が聞くと、久美子はふわりと笑った。
「あなたでしょ?啓一、悠斗、美咲、私……それに ……」
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悠斗も次第に変わっていった。ある夜、寝室の壁に向かって何かを必死に描いていた。鉛筆ではなく、自分の爪で。
「ここにいる……ここにいるんだ……」
彼の部屋の壁には、無数の目のような模様が彫られていた。誰にも理解できない、狂気じみた模様。
「話してくれるんだ、あいつは……お前たちには聞こえないだけさ」
美咲は怖くて、夜は鍵をかけて眠るようになった。でも、毎朝起きると、鍵は内側から開いていて、部屋の片隅には濡れた足跡が残されていた。
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そして、ある夜。美咲は夢を見た。
夢の中で、家の中心にある床下収納の蓋がゆっくり開き、中から何かが伸びてきた。美咲に触れようと、ゆらりと揺れながら近づいてきた。
「…………」
目が覚めた時、美咲の枕元に濡れた手形があった。
その日、美咲は家族にこう言った。
「もう、この家おかしいよ!出ていこうよ!」
だが、家族は笑って答えた。
「何を言ってるの、美咲」
「ここが、私たちの家よ」
「それに、やっと五人揃ったんだ」
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夜、美咲はひとり家を出ようとした。だが、玄関の扉は開かず、窓は固く閉ざされていた。恐怖と絶望に泣き叫ぶ中、家の奥から「それ」は現れた。
黒い影のようで、けれど確かに「人」の形をしていた。顔はなく、口だけが笑っていた。
声を発した。
聞き取れない。ただ、優しかった。母のような、父のような、兄のような、すべてを混ぜたような声だった。
美咲は、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん」
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それからというもの、町の人々は噂するようになった。
「最近あの家に引っ越してきた家族、なんだか前より仲が良くなったよな」
「そうそう、五人でいつも一緒にいるみたいだよ」
かつて四人しかいなかったことに誰も気づかない。
いま、その家には確かに五人いる。
父、母、兄、妹。そして、「それ」。
ゆがんだ笑顔の、五人目の家族とともに。