■ 「戦う少年」の時代は終わるのか?
少年漫画、青年漫画において「敵」とは成長の象徴であり、物語を動かす原動力だった。
『ドラゴンボール』の悟空が強敵に挑む姿。
『ナルト』が仲間と共に“悪”に立ち向かう姿。
戦うことで主人公は成長し、物語はカタルシスを迎える。
それが王道漫画の「正義 vs 悪」構図の基本だった。
だが、そんな中、『ヴィンランド・サガ』のトルフィンのセリフ「俺に敵なんかいない」は、その枠を壊す。
これは、“戦わない主人公”の覚悟と思想の宣言であり、漫画表現におけるひとつの転換点だといえる。
■ ヴィンランド・サガとはどんな作品か?簡単におさらい
原作:幸村誠。講談社『アフタヌーン』で連載中の歴史漫画。
舞台は11世紀の北欧〜イングランド。ヴァイキング全盛期の混沌の中、
少年・トルフィンが「戦士」として人生を始め、「非戦」の境地に至るまでを描く。
単なるバトル漫画ではなく、戦争・暴力・復讐・許し・国家・生き方を深く掘り下げた、壮大な叙事詩(エピック)ともいえる作品だ。
■ 「俺に敵なんかいない」──このセリフの背景
このセリフが登場するのは、物語が大きく転換する「農業編」。
かつて“復讐の鬼”だったトルフィンが、戦いを放棄し、平和を願うようになる。
彼の過去は、敵を斬り続けた血の記憶で満ちている。
だが、その果てに何も残らなかった。
怒りも復讐も、他者を変えず、自分だけが壊れていく。
だからこそ、彼は言い切る。
「俺に敵なんかいない」
これは、「誰とも戦わない」という選択ではない。
「敵」という存在を自分の世界から排除する」という、極めて主体的な思想なのだ。
■ 少年・青年漫画における意義:トルフィンは“ポスト戦闘型”主人公
このセリフがもたらす意義を、漫画史的に整理してみよう。
▶︎ ①「戦って乗り越える」から「対話で乗り越える」へ
従来の漫画では、力やスキルで困難を超えるのが常識だった。
だがトルフィンは暴力の果てに何もないと知った。
そして、怒りや恐怖に屈するのではなく、それすらも自分で終わらせることを選んだ。
トルフィンの姿は、今の時代にフィットしている。
SNSや戦争、価値観の対立があふれる現代において、
「敵を作らない」という生き方は、むしろ最先端のヒーロー像かもしれない。
▶︎ ②「赦し」を描く数少ない作品
トルフィンは、父を殺したアシェラッドを最後まで憎みきれなかった。
奴隷にされ、戦場を彷徨い、自分もまた誰かの父を殺してきたからだ。
つまり、「敵」に見える存在もまた、自分と同じ痛みや過去を持つ人間だと理解したのだ。
これは、『鋼の錬金術師』や『キングダム』など、
戦う主人公たちでは描ききれなかった「赦し」と「非暴力の強さ」を物語の中核に据えている。
■ なぜ今、この言葉が響くのか?
「俺に敵なんかいない」という言葉は、戦争や分断が続く現代社会において、
読者に深く突き刺さるメッセージを持っている。
「誰かを敵として見る」ことは簡単だ。
ネットでも現実でも、他者を攻撃するのは手っ取り早い。
けど、トルフィンはそれを選ばなかった。
彼は、「敵はいない」と信じる努力を続けることのほうが、圧倒的に強いと教えてくれる。
それは、現代の“怒り”に満ちた空気の中で、
一筋の“信じる力”として響くんじゃないだろうか。
■ 「俺に敵なんかいない」は、“生き方の宣言”である
少年漫画や青年漫画が描いてきたのは、「どう生きるか」だ。
トルフィンは、剣を置いたことで弱くなったわけじゃない。
むしろ、「誰かを敵だと思わずに生きる」ことのほうが、よほど勇気がいる。
彼のセリフは、戦い抜いた末にたどり着いた、ひとつの真理なんだと思う。
🔍 まとめ:「敵のいない世界」は弱さじゃなく、強さの証
『ヴィンランド・サガ』のトルフィンが放った「俺に敵なんかいない」という言葉は、
暴力に抗い、赦しを選び、生き直す覚悟を示す、極めて能動的な反戦の哲学だ。
それは、これまでの“戦う少年”像からの脱却であり、
これからの漫画が描くべき「平和の在り方」の提示でもある。
「敵を倒す」ことでなく、「敵をつくらない」ことで世界を変える──
そんなヒーローが、ついに漫画に現れたこと自体が、新時代の幕開けなのかもしれない。